最先端の文学を紹介します!名付けて「キュレーター文学」

Do the キュレーター文学

いつからなのでしょうか?美術館の学芸員さんたちが自らをキュレーターと称し始めたのは。
そして、時を同じくして生まれたのが「キュレーター文学」なるものだ。

彼ら、彼女らは、アートを一般の人に紹介する説明文そのものをアートの領域に高めたのだった。

アートを良く解らないと思っている人たちに、その本質を平易に説明するのではなく、説明を装い、結局は何も理解できない現象をその人たちの脳に起こすというアートを体現する彼ら、彼女らは、まさに音楽家の楽曲を再生してミュージシャンと崇め奉られるDJの様に、あるいは、全く屁理屈の極みを価値あるものと万人に思わせた禅僧のように、自らの存在を一般の人とは違う高みにあると提示しているのだ。

その素晴らしいキュレーター文学をいくつか紹介しよう。

詩人の関心や想像力は論理的な探索とは限らない。それはイメージの連関のようにして水平方向に滑っていく運動であり、それが見る者も魅惑し、刺激する。こうして紙や彫刻のような物質として残されたものが集められたことで、私たちはそれらを見る行為を通して吉増の思索に接近していく。おそらく吉増自身はほとんどの一次資料を見ているわけではない。むしろそうした博物学的な収集をするというよりも、著書を読み、その場を訪れるなり関係者と会うなりの経験から彼は作詩を行なっているだろう。この経験的な行為を通じて折口や島尾の実践とのなんらかのイメージによる結びつきを吉増自身が見いだすことの代替行為として、私たちは、写真や彫刻、そして自筆原稿が持つテクスチャーを眺め回して、答えのない思索を辿ることが可能なのだ。

足利市立美術館「涯テノ詩聲 詩人 吉増剛造展」、アーツ前橋+前橋文学館「ヒツクリコ ガツクリコ 言葉の生まれる場所」住友文彦著より抜粋

詩人の想像力は「水平方向に滑っていく運動」なのである。そして「答えのない思索を辿ることが可能」なのである。解りやすく言いますよ!と振ってまったく解らないというオチのキュレーター文学の基本です。

こういった経験から私は『想像の共同体』(リブロポート、1987。原著初版=1983)という一冊の本を思い出した。筆者であるベネディクト・アンダーソンはインドネシアなどの研究から、国家が国民によって想像されるために新聞などのマスメディアが果たした役割について考えていた。インドネシアのようにバラバラの島で構成され、その東西の長さが5000kmにも及ぶような国において、ひとつの「国家」を国民が想像することは非常に難しいであろう。そのなかで、毎日おなじ言語で新聞を読む、という行為を通じ、記事を読んでいるほかの人々、すなわち共同体に所属する自分や家族、そしてその外側にいる国民の存在を想像していったと彼は考えた。このことはコロガルパビリオンでのできごとを考えるうえでも非常に示唆的である。

「教育普及の現場から──これからのミュージアムの最も刺激的な使い方」会田大也著より抜粋

出ました!よく解らないけど権威がありそうなものを引用して、「これは正しい」と思わせる手法です。そして、結びの「示唆的」という結び。これは楽曲を文字で説明する音楽雑誌によく見る「そして音の洪水」というフレーズと同じ立ち位置の、あるいは中継先のレポーターが言うことがなくなると言う「お返しします」と同等の機能を備えた言葉なのだ。

写真は日常生活の至るところに存在する。「美術」という領域においても、写真はいつの間にか浸透し、美術館のなかで作品として鎮座する。現代美術、とりわけハプニングやイヴェントと呼ばれる行為による作品は、作品として流通する際、多くの場合テキストや写真に頼らざるをえない。2014年に亡くなった赤瀬川原平の展覧会「赤瀬川原平の芸術原論1960年代から現在まで」(千葉市美術館)や、ともにハイレッド・センターを結成した「高松次郎ミステリーズ」(国立近代美術館)では、彼らが手掛けた写真作品が展示され、さらに「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡」(渋谷区立松濤美術館)においては、写真は行為を記録し作品のありかを示す、重要な証言者として召喚された。さらに、「美術と印刷物─1960-70年代を中心に」(国立近代美術館)では、行為やプロセスを記録し、アイディアを示す無機質な誌面の一部として、写真は印刷物のなかに姿を現わした。写真は失われた行為や時間を記録し示すだけでなく、作品そのものにすら成り代わっていく。

「写真の展開2014」遠藤みゆき著より抜粋

イベントではなくイヴェント。説明がされないハイレッド・センター。
極み付きは
「写真は行為を記録し作品のありかを示す、重要な証言者として召喚された。」
解りやすく説明しようと思うと絶対に出てこない、この言い回しこそがキュレーター文学がキュレーター文学たる所以なのだ。
そして最後の畳み込み。
「写真は失われた行為や時間を記録し示すだけでなく、作品そのものにすら成り代わっていく。」
一般の人が持つ「写真」の概念を打ち砕き、写真って何?とアーパーな状態に持って行くのだ。

さて、いかがだっただろうか?みなさんにもキュレーター文学の良さがお解かりいただけたと思う。

確かに、一般の人に解りやすく解説を書くキュレーターも存在はしている。
しかし、私に言わせれば、それはアートではない。そのような人々は、旧態然としたまだ「学芸員さん」でいるのだ。
アートを語るきゅれ〜た〜は、自らがあーとでなくてはならない。みなさんも私の意見に同意してくれることを確信しつつ、ここに筆を置きたい。